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8歳の自分は全力で前を向いて走っていた

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このわけがわからなかった一年を振り返っていたら、なぜか8歳の自分を思い出した。

自分の持てる力をすべて使って何かを吸収して前に進もうとしていた時間があったとしたら、間違いなくあの1年半だ。

小学2年生の夏、家族でフランスに住むことになった。「海外赴任」とかいうきらびやかなものではない。埼玉県の公立高校で国語の教員をやっていた父親が、文部省の外国教育施設日本語指導教員派遣事業(REXプログラム)に採用されて、1年半の任期でフランスの現地の公立校で国語を教えることになった。まわりの「赴任組」は広くて近代的なアパートに住んでいたけれど、私たちの住まいはパリの外れのエレベータの扉がじゃばらのおんぼろアパート。父は事前研修でフランス語をかじったようだがおぼつかず、母は「家族は一緒」のモットーのもとに勢いで渡仏に同意しただけ。会社のサポートがあるわけでもなく、言語面で頼れる人はいなかった。ちなみに当時弟は3歳。

父の勤務先に日本語が話せる人がひとりいて、到着すると最低限のお世話はしてくれた。その人の案内で仮住まいである父の勤務先の最上階にある寮に到着した瞬間、手前に引いてあけるタイプの窓ガラスの角に思いっきり頭を打ち、大きなたんこぶができた。それが到着初日について覚えている唯一のこと。

紹介してもらった日本人の中古車ディーラーの人から父はルノーの小さな車を買った。「日本の方は日産とかを好まれますけどね」と驚かれていた。ちなみにその車は本当にポンコツで、一年半の滞在の後半はたびたびオーバーヒートをおこし、高速で小一時間とまって冷やさないといけないことがよくあった(トイレは適当に済ませることができるとこの時知った)。それなのに帰国する時に他の人がよくやっているように車の窓に「売ってます」っていう貼り紙を出しておいたら、売れたらしい。

日本人学校はパリ市内から1時間くらいバスに乗らないといけなかった。「通学時間はなるべく短く」が畠山家の信念だったので、日本人学校は早々に選択肢から外された。近くの学校をふたつほどまわったのち、私の直感が尊重され、わたしがいいと思ったほうに通うことになった。フランス語がまったくできないので、ひとつ学年をおとして新学期から通うことになった。

登校初日、大人に覚えさせられた「私の名前は澄子です。日本から来ました。」だけを暗記して、みんなの前であいさつをした。その直後にはじまった授業ではとりあえず黒板に書かれたことをノートに写そうと思ったけれど、黒板に書かれている文字が文字と認識できなかった。はじめましてアルファベット。

休憩時間になったら弟が幼稚園エリアで猛烈に泣いていた。幼稚園エリアと小学校エリアは丈の低いフェンスでしきられているが、あまりにも泣いていたので弟のところにいくことが許された。「大丈夫だよ」とか言った気もするが、覚えていない。

私は私で女の子3人ほどに囲まれて、でも何を言われているのかさっぱりだった。しばらくすると明らかに何か質問している感じで3人のうちのひとりが7本指を私の前に出した。やっぱりわからなくて曖昧に首をかしげていたら、その指の本数が一本ずつ減っていった。3本まで減ったところでみんなが「ありえないか」っていう顔をして笑って、その瞬間に私はわかった。「聞かれているのは年齢だ!」。8本指を出した。そうしたらみんながすごく喜んで納得した顔をしてくれて、私は心の底から「伝わった!!!!」って思った。わかりあう歓びを知ったあの瞬間を私は忘れない。

最初の数日の学校生活がどうやって成り立っていたのか、いまだに不思議な部分が多い。登校初日、学校で何が起きていたかも宿題が出たかも、翌日の持ち物が何かもわからなかった。家で私と父がやったことは、教科書を数ページ分ノートに書き写すことだった。父親が下手な筆記体で、1行とばしで教科書を書き写し、辞書をひきながらところどころ言葉の意味を書いてくれた。私はその下に、見よう見まねで文字を書いた。それを何日か続けた気がする。そのうち文字と単語の切れ目がわかるようになっていって、そのうち父の手助けはいらなくなった。何をしていいかわからないときはとにかく何でもいいから手と頭を動かすといい。何か発見があるから。

一家の中で私だけが、明らかに、ものすごいスピードで、言語を習得していった。カトリックの私立学校だったのだが、授業中にちょくちょく別室に連れていかれ、シスターがマンツーマンでフランス語のレッスンをしてくれたあの制度はすごい。シスターの教授法はきわめて単純で、言葉カードや絵本でひたすら日常でよく使う単語を覚えさせていく。間違えた単語は何度も何度も反復した。単語がわかれば言葉はある程度わかるようになることを潜在的に知ったのはこの時かもしれない。日本の学校でも日本語が母語でない児童のためのサポートが充実したらいいと心から思っている。ほんの少しの手助けで、子どもはものすごい勢いで伸びる。

半年もたつと、読み書きもリスニングもどう考えても私が家族のだれよりもできるようになっていた。父も母も言葉が通じないことをストレスにするタイプの人間ではないし、言葉が通じないなりのコミュニケーションを積極的にとれるタイプだったけれど、どうしても伝わらないことやわからないことがある。そういう時は私がコミュニケーションを仲介した。とはいえ小学生の語彙力なわけで、大した会話ができていたとは思えない。日本や海外で、暮らしている土地の言葉がわからない親を連れた子どもをみると、当時の自分とちょっとだけ重なる。

誕生日には友達を招待してパーティーをやるのがどうやら習わしで、私も何人かのパーティーに呼ばれた。渡仏から9か月ほどしてやってきた私の誕生日は悩ましかった。うちは明らかにみんなを招待できるほど広くなかった。近くのマクドナルドで友達を呼んでの誕生日会が開けることをどのように知ったのかは忘れたけれど、母とふたりでマクドナルドにいって、私が「この日にお誕生日会をやりたいのでお願いします」と頼んだ。店員さんはどう思っていただろう。誕生日会はうまくいったけど。

日本でも習っていたバレエをフランスでも続けることにしたのだけど、クラス編成の関係で、なぜか私がクラスの中で結構できるほうになってしまった。別に大して上手でもなかったのに。先生が、できる子は前列にポジション指定するタイプだったので、いつの間にかひがまれていたらしく、ある時ロッカーで着替えているときに隣の部屋で悪口を言われていた。悪口の中身はまったくわからなかったけど、私が悪口を言われていることははっきりわかった。言葉が通じなくても悪口を言っていることは通じてしまうと知った。以来、そういう形で人を傷つけたくないと思ってきた。

この1年、コロナの影響を真正面からうけた業界にかかわる人間として、言葉が通じないような、どうしたら目の前の状況を打開できるのかわからないような、とにかく先の見えない場面に多く直面した。その状態は今も続いていて、これはもしかしたらコロナと少し距離をとれたり、コロナをいかせるビジネスにかかわる人たちには想像しづらい世界なのかもしれない。当然一方ではもっと苦しい状況におかれている人もいる。いずれにせよそのような中で、何をしていいかわからないから思考を停止し、できることさえもやめてしまいたくなったこともある。人とのコミュニケーションを諦めかけた時もあったし、諦めてしまったこともあった。それでも年の瀬を迎えたいま、来年に向けて自分を改めて叱咤しようと思っている。8歳の自分があれだけ生きていくために恥を捨てて必死に動けたのだから、大人になって知識も経験も仲間も増えた自分はもっとできるはず。この時養った想像力や人に頼る力で、乗り越えていきたいと。


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